大きい 目標を掲げると現状の自分自身とのギャップが浮き彫りになり、やらなくてはならないことが結構あることに気付きます。前までは、“ こいじゃやっせん(これではいけない)?!あれもやらんとやっせんど (これもやらなくてはいけない) !? ”と闇雲に色々手をだす癖がありました。ふと気づいたのですが、最近その癖が減ってきているように感じるのです。理由は、ノート、Googleドキュメントを見返して内容が纏まっているように見受けられるからです。以前は、とっ散らかっていました。。。
去年6月から月一回、まる一日かけて密度の濃いセミナーに参加させていただいています。朝10時から21時までみっちり。終わるころはヘロヘロ状態になります。 5月のそのセミナーで近況の進捗を発表したところ講師の先生から、 吉田兼好の「徒然草」第188段を思い出し実践しなさいとの指導をいただきました。素直に実践した結果かどうかは別において、上記の結果は、守破離の「守」の成果と良い視点でとらえています。2か月経過し、この程度でありますが行動に次ぐ行動。今は表にはあらわれない“もがき”の過程ですが。継続、継続。今に見とれ。
吉田兼好「徒然草」第188段の要約は、以下を参照ください。
ある人が自分の子を僧侶にして、
以下、URL引用。
「仏法を学び、因果応報の理を知り、説法などをして生計を立てるようにしなさい」
と言ったので、その子は親の教えのままに説法の講師になろうとして、まずは乗馬を習い始めた。
輿(こし・写真参照)や牛車を所持しない身で、説法の講師として招かれた時に馬で迎えに来た場合、桃尻で落馬してしまっては恥ずかしいだろうと思ってのことである。
次に、法事のあとに酒などを勧められることもあるはずで、僧侶が酒席でひとつの芸も披露できねば檀家たちががっかりしてしまうだろうと思い、早歌(そうか・鎌倉時代に貴族、武士、僧侶の間で流行した歌謡)というものを習った。
乗馬と早歌の両方がだんだんと熟練の域に達してきたので、ますます上達させようと本腰で頑張っているうちに、肝心の説法を習得する時間が取れず、そのまま年老いてしまった。